文筆家が絵も達者だったら、漫画を描くのか。
志賀直哉や小林秀雄が絵も上手だったら、漫画を描いただろうか。
いや……描かないだろう。
なぜなら、彼らはもはや、彼らの文章の内に絶対化されているからだ。
何を言いたいのかというと、結局のところ私は……私の筆は中途半端だったのだ。
私は最初、小説家になりたかった。
絵と文の関係について、ずっと考えていた。
私の場合、ネームをつくるときは文章から入る。
つまり、『はじめに言葉ありき』である。
きつねが化けるように、言(こと)の葉っぱが絵に化けるのである。
もちろん逆の作家さんもいることだろう。
はじめにイメージがあり、それが言葉をしゃべっていくものだ。
どちらが正しいとか、正しくないとか、そんなことは知らない。
どうせきっと、どちらも正しくないのだろう。
それでもどちらかを選ぶとすれば、矛盾があるほうを選ぶのがよいだろう。
実はそういったスタイルのほうが、かえって自分自身の反映だったりするものだ。
私も自分のスタイルに矛盾を持っている。
「はじめに言葉ありき?ふぅん。……で、言葉がないところにはかわりに何があるんだい?」
そう問われたとき、何も言い返せなかった。
その時の無言の私自身が何者なのかを逆に問われた気がした。
内に答えはない。
では、外にはあるのか。
いや、ないだろう。
しかし、「無い」ことが思想を生むことだってあるのである。
大事なのは「つくり続けること」だろう。
そうすればやがて、どこか行くべきところに行けるだろう。
自然に任せておけばいいのだ。
語りたいだけ、文に語らせておけばいい。
描きたいだけ、絵に描かせておけばいいのだ。
昨今のデジタルキャンバスは広大だ。
それはもはや、「空間」というより「時間」によって限られる。
現代における絵と文の関係とは、「空間」の配分関係というよりもはや「時間」の配分関係そのものなのではないだろうか。
スピノザは「あらゆる限定は否定である」と言った。
寿命とは時間の限定化であり、その意味で生きとし生けるものはみな何かしらかの否定者なのだろう。
その中でいかに肯定者となりうるか、肯定者たろうとしてもがけるか。
話がそれてしまったが、文を否定することが、すなわち絵を肯定することにはならない。
逆もまたしかりである。
つまり、我々が目指すべきは、絵も文も肯定するというところだろう。
私の作風は、おそらく以上のような考えから派生している。
漫画は一コマという「空間」に限られているのではなく、むしろ人生という「時間」に限られている。
そのなかでいかに絵も文も肯定していけるか。
肯定者たろうとしてもがけるか。
『絵と文』ではなく『絵も文も』
これが私の漫画の要(かなめ)だろう。