あらゆる物事には境界が必要である。
この世界には実にさまざまな線(ライン)が存在するが、空間を区切る線はあれど、時間を区切る線はなかなか目に見えるものではない。
寺山修司は次のように言った。
「われわれは時間を見ることができない。見ることができるのは時計なのである」
世界の時は時計の目盛りによって線引きされている。


さてタイトルにも記した通り、私たちは時計以外に世界の時を区切る手段を持っている。
コマ割りである。
それは空間を区切っているように見えて、実は時間を区切っている。
寺山風に言うのなら、私の持っている「目盛り」は3つしかない。
……3コマ漫画である。
私の場合の3コマとは、過去・現在・未来を表すものではない。
過去・過去・過去である。
フェルナンド・ペソアは「あらゆる詩は翌日に書かれる」という謎めいた言葉を残したが、真意はともかくとして、私の感覚の範疇ではそれに近いものを感じている。
なんと懐古主義的な目盛りなのだろう。
なんと単純な形式なのだろう。
だが私の場合はそれでよかった。
およそ問題というものは複雑になればなるほど、シンプルな型へと収斂してゆくものであるから。


なぜ世界を3コマで表現しようと思ったのか。
謎を謎のままでそっとしておくのもいいのだが、いわゆる「手抜き」ではないということは示さなければならない。
説明の前に断っておくが、この話は「クント」の物語の本質に関係するものではない(……と思う)。
料理で例えるならば、それを盛るための「器」に相当する部分であろう。
しかし柿右衛門や九谷、伊万里の傑作を見ればわかるように、もしかすると料理ではなく食器のほうに神が宿ることだってあるかもしれないのである。


美大在学中に、デザイナーである佐藤卓先生の講義を拝聴しに行った。
(私の記憶が正しければ)そこでガムのパッケージデザインについての話題になった。
ガムのパッケージは四角柱で、側面の一つに成分などを明記し、残りの側面3つで商品を表現している。
従来は3面とも同じデザインが施されていた。
しかし先生はこれを3面分のキャンバスに見立ててデザインし直し、商品を解放させたのである。
私にはどういうわけかそれが3コマに思えたのだ。
私の作品はガムのパッケージに時系列を付けただけなのである。


漫画の一番読みやすいレイアウトは、3段7コマと言われている。
3コマ漫画はそのうち3段の部分を継承しており、読みやすさという点においては一応理にかなっている。
ただコマが固定されることでマンネリを生みやすい。
いかに緩急をつけられるかがカギであろう。
私はといえば、逆に静かな物語を静かなまま終えるのもいいのではないかと最近思いはじめている。
表現の過多は胸焼けも起こしやすい。
つぼみがあり無音で花が開きそして無音で枯れる。
そんな静謐な作品を描きたいものだ。
実際に3コマで制作してみて、その点における親和性は高いと感じる。
さてこれからどうなるか……。